絨毯の起源は定かではありませんが、遊牧生活の中で、羊の毛を使った敷物が作られたことが始まりと考えられています。初めは羊の毛を押し固めてフェルトにし、寝具や敷物にしていたところからやがて糸を紡ぐことを覚え、平織りの「キリム」と呼ばれる敷物へと発展しました。この絨毯は保温性に大変優れており、しかも丈夫という特性から遊牧生活に非常に適していました。
絨毯は西アジアの砂漠・山岳地帯において、日中の強い日差しを遮り、夜の寒さから身を守るものとして、遊牧生活にはなくてはならないものとして生み出されたのです。
パジリク絨毯とは、1949年にモンゴル・アルタイ山脈のパジリク古墳で発掘された、現存する世界最古のペルシャ絨毯で、紀元前5世紀頃のものと推測されています。絨毯は消耗品であるために、500年を超える古いものはほとんど残っていません。
しかし、このパジリク古墳は極寒の永久凍土であったため、2500年以上も前の埋葬品が朽ち果てずに発見されたのです。そして、絨毯の歴史を探る上で貴重な資料となっています。
ペルシャ絨毯がその魅力である芸術性を開花させたのは、西アジア全体がイスラム化し始めた7世紀以降です。イスラム教では偶像崇拝が否定されていたため、絵画や彫刻などの発展が遅れていました。
しかし、織物や陶器などといった工芸の分野が目覚ましい発展を遂げ、独特の工芸美術の世界を構築し、その生産は隆盛を極めました。
16〜18世紀はそれまで長く続いた異民族支配の後に生まれた、ペルシャの統一王朝サファビー朝ペルシャ(1501〜1736年)の時代です。この200年間がペルシャ絨毯3000年の歴史の中で、最も栄華を極めた黄金期と言われています。サファビー朝ペルシャの王、シャー・アッバスは、ことのほかペルシャ絨毯を愛し、これを手厚く保護しました。
絨毯の模様も、これまで受け継がれてきた素朴で直線的なものから曲線的で華麗なものへ、また染色や織りの技術においても飛躍的進歩を遂げました。しかしこの後ペルシャは18世紀にアフガンの支配下に入り、これ以降ペルシャ絨毯の生産は停滞してしまいます。
18世紀、サファビー朝はアフガン人の侵略に遭って滅びるとともに、絨毯の生産もごく一部を除き途絶えてしまいました。その後、約1世紀以上の長いブランクを経た19世紀後半、絨毯生産は再び活気を取り戻し、それぞれの産地の特色を持ったレベルの高い絨毯が織られるようになりました。
この復興はタブリーズの商人を中心としてヨーロッパ市場に向けてなされたもので、ヨーロッパの会社が現地イランに絨毯工場を設立し、生産を始めたことも活性化につながりました。
1979年、イランはイスラム革命により王制に終止符を打ちます。革命後はペルシャ絨毯の流出を規制したため、一時期輸出は落ち込みますが、1984年外貨獲得の手段として再び振興策を取り、ペルシャ絨毯は国の重要な輸出品目となっています。
また20世紀に入り、機械織絨毯の普及による絨毯の素材・パターンの多様化や技術の向上などが見られる一方、古くからの伝統的な工法やデザインが忘れられつつあります。
・家の中では靴を脱ぐ。
・「コルシ」と呼ばれるこたつがある。
・お正月に年少者に「お年玉」をあげる。
・日本語でいう「色々」はペルシャ語で「ランゲランゲ」と言い、ランゲは色という意味。
日本とペルシャ絨毯との関わりは大変古く、安土桃山時代にシルクロードと中国を経て初めて日本に入ったとされていますが、古く弥生時代までさかのぼると「魏志倭人伝」の中に、「魏の明帝が邪馬台国の女王卑弥呼に朝貢の答礼として、絨毯と思われる敷物を贈った」という記述があり、太古の昔から日本にはペルシャ絨毯との接点があった可能性があります。
安土桃山時代に本格的にペルシャ絨毯が輸入されるようになってからは、豪商たちに舶来品として好んで買い求められたと言われています。また豊臣秀吉が、その美しさに魅せられて、ペルシャ絨毯を身にまとうために裁断し陣羽織としていたのも有名です。
京都の祇園祭に使われる山鉾には、17世紀頃に伝えられたとされる絨毯が飾られています。日本の中でも京都には大変数多くのペルシャ絨毯が残されており、どれも保存状態が大変良いため、世界的にも貴重な文化遺産として注目されているのです。